バレー部を引退すると、急に時間ができた。
それまでの高校生活は部活が中心だった。
毎日練習があり、土日も試合や合宿だった。
だから引退した直後は、何をしていいのかわからなかった。
そんな頃、僕は熱帯魚に夢中になっていた。
四十五センチの水槽で、エンゼルフィッシュやネオンテトラを飼っていた。
学校から帰ると、まず水槽を見る。
餌をやる。
水を換える。
魚たちが泳ぐ姿を眺める。
それだけで時間が過ぎていった。
でも四十五センチの水槽では物足りなくなる。
どうしても六十センチ水槽が欲しくなった。
ろ過器も欲しい。
ヒーターも欲しい。
しかし高校生の小遣いでは、とても手が届かなかった。
そこで僕は暴挙に出た。
東中野の熱帯魚屋の店先に置いてあった六十センチ水槽を、自転車の前カゴに載せてそのまま逃げたのだ。
魚ではない。
水槽だった。
今思えば完全な犯罪だ。
当時の僕には、欲しいものがあると我慢できないところがあった。
盗んだ水槽を机の上に置く。
そこへ魚を泳がせる。
夜になると、水槽の灯りだけが部屋に浮かんだ。
その景色が好きだった。
高校三年になると、大学受験が目の前に迫ってきた。
僕は日本大学へ行きたくなかった。
付属校だから、その気になれば推薦でどこかの学部へ進学できた。
でも、それが嫌だった。
それに私立大学は金がかかる。
だから国立大学を目指すことにした。
もちろん簡単ではない。
晴美は知り合いを頼り、僕を駿台予備校へ入れてくれた。
国立大学コースだった。
そこには同じクラスだった岡田くんもいた。
岡田くんの家は自由が丘で病院をやっていた。
当然のように医学部志望だった。
理系だった僕は、数学や物理、化学はそこそこできた。
でも英語と社会は壊滅的だった。
特に歴史。
覚える気がまるで起きなかった。
予備校へ行っても、勉強より女の子を見ている時間の方が長かった気がする。
雙葉の制服は本当に可愛かった。
イカリのマークが入ったセーラー服。
正統派だった。
由香さんは、予備校で同じクラスだった。
僕は話しかけた。
少し仲良くなった。
同じ頃、岡田くんも別の女の子を狙っていた。
どちらが先に彼女を作れるか。
そんな勝負をしていた。
でも僕は数回話しただけで終わった。
というより、自分から引いた。
彼女の空気が、
「ここは遊ぶ場所じゃない」
と言っていた。
予備校へ来ている女の子たちは、本当に勉強していた。
遊んでいたのは、僕の方だった。
共通一次試験は惨憺たるものだった。
数学はほぼ満点だった。
でも社会がまったく駄目だった。
古典も壊滅的だった。
それでも国立大学を諦めきれなかった。
教育学部があり、足切りのない大学を探した。
高橋先生のような技術の先生になりたかったのだ。
そこで見つけたのが弘前大学だった。
二次試験は小論文と面接だけだった。
弘前へ着くと大雪だった。
雪が横から吹いてくる。
傘を差しているのは、ホテルへ向かう僕だけだった。
地元の人たちは誰も傘を差していない。
小論文も面接も、それなりにうまくいったと思う。
でも結果は駄目だった。
「津軽雪深し」
合格電報は来なかった。
国立大学の夢は終わった。
結局、日本大学を受けることになる。
でも付属推薦は使えなかった。
外部受験だった。
日本大学理工学部と日本大学生産工学部を受験した。
他にも受けた気がする。
でも覚えていない。
結局、合格したのは日大生産工学部だけだった。
浪人も考えた。
でも父は許さなかった。
だから進学することにした。
不本意だった。
でも、それ以外に道はなかった。
初めて店で酒を飲んだのも、この頃だった。
同級生の山藤くんの家は六本木にあった。
芋洗坂を下ったところにある豪邸だった。
彼の家で、佐野元春や大瀧詠一のレコードを聴いた。
帰り道、山藤くんが言った。
「ちょっと寄っていこうか」
坂の途中にバーがあった。
僕は何もわからないまま、ついていく。
薄暗い店だった。
カウンターへ座る。
山藤くんが聞いた。
「何飲む?」
わからない。
だから、
「同じのでいいよ」
と言った。
山藤くんは店員へ、
「ドライマティーニを二つ」
と注文した。
店員は細い脚のついたグラスを二つ並べた。
そこへ透明なマティーニを静かに注ぐ。
氷の入ったシェーカーの音が響く。
カチャ、カチャ、と乾いた音がする。
それだけで、なんだか大人の世界へ入った気がした。
グラスに注がれたマティーニは、とても綺麗だった。
店員はオリーブを入れ、最後にグラスの上へ柑橘系の香りをまとわせた。
一気に爽やかな香りが広がる。
それが大人の匂いに思えた。
初めて飲んだマティーニは、とても美味しかった。
大学入学前、僕はバイトに明け暮れた。
原付免許を取り、ホンダのラクーンを買った。
ラクーンは、田村先輩が乗っていた。
赤いラクーンだった。
とても格好良かった。
同じ赤にしようかとも思った。
でも、それだと区別がつかなくなる気がした。
だから僕は黄色にした。
かなり派手だった。
でも気に入っていた。
そのラクーンでバイトへ向かう。
中野のサウナ。
六本木のステーキハウス。
掛け持ちだった。
夜の街を原付で走る。
風が気持ちいい。
春の匂いがする。
高校は終わった。
受験も終わった。
春が来れば大学生になる。
僕は少しだけ大人になった気でいた。
でも本当は、まだ何も始まっていなかった。
大学生活。
父との二人暮らし。
風呂のないアパート。
銭湯通い。
渋谷の活魚料理店。
スナックでの住み込み生活。
そして、たくさんの出会い。
それらはすべて、もう少し先に待っている。
黄色いラクーンは、まだ始まっていない未来へ向かって走っていた。