その頃、高校のバレー部の大沢先輩が、毎日のように子馬に来ていた。
先輩は、新宿にあった「火曜スタジオ101」というカラオケスナックで働いていた。
お互いに店が終わる時間が近かったので、仕事が終わると子馬に来て、一緒に飲んだりしていた。
そして、もうひとつの楽しみがあった。
ファミコンだった。
当時、ファミコンは大人気だった。
僕も、ずっと欲しいと思っていた。
渋谷のスクランブル交差点のそばにあるビルの三階に、「ファミコンセンター」という店があった。
そこでは、ファミコンの本体やソフトを販売していた。
中古のファミコン本体も売っていて、僕は何度もその店に通った。
「お金がたまったら、これを買おう」
そう思っていた。
そして、それは間もなく現実になった。
中古のファミコンを八千円くらいで買ったと思う。
ファミコンを手にすると、僕は急いで家に戻った。
袋から出して、説明書を読み、接続方法を確認する。
しかし、何かがおかしい。
ファミコンを買う前からわかっていたことだった。
部屋にはテレビがなかった。
正確には、テレビはあった。
ただ、それはポータブルテレビで、画面は三インチくらいしかなかった。
しかも、アンテナ端子がない。
これではファミコンをつなげられない。
そこで今度は、テレビを探すことになった。
新品のカラーテレビは、小さな14型でも五万円くらいした。
とても買えない。
そこで中古を探すことにした。
当時の渋谷には、中古の家電を売っている店は、あまりなかったような気がする。
それに、ブラウン管のテレビは14型でもかなり重い。
電車で買いに行くのも無理だった。
そこで思いついたのが、質屋だった。
何軒目かの質屋で、ようやく一万円のテレビを見つけた。
僕は、すぐに買った。
テレビを手に入れ、喜び勇んで家に帰った。
これで、ようやくファミコンができる。
それからは、ファミコン三昧だった。
先輩も大はしゃぎだった。
毎日のようにスーパーマリオで遊んだ。
店が終わると、朝までファミコン。
ステージをすべてクリアし、100人マリオもできるようになった。
そんな毎日を過ごしていた僕も、ようやく大学4年生になった。
そして、研究室に入ることになった。
成績の悪かった僕は、人気のある研究室には入れなかった。
入ったのは、留年組が多い、いわゆる吹き溜まりのような研究室だった。
研究室では、二人一組になって教授から課題をもらい、実験を行う。
僕たちは、鋳物を題材にした実験をすることになった。
鋳型を液体窒素で凍らせて鋳物を作った場合と、普通に鋳物を作った場合とで、強度にどのような違いが出るのか。
その結果を論文にまとめるのだ。
当時、研究室にはパソコンもワープロもなかった。
図やグラフはもちろん、文章もすべて手書きだった。
教授から書き方を教えてもらいながら書くのだが、これがなかなか大変だった。
何度も書き直しをさせられた。
夏も過ぎると、論文も追い込みの時期に入った。
しかし、その頃になると、吹き溜まりのような研究室には、顔を出す学生が少なくなっていた。
教授も、このままではまずいと思ったのだろう。
ある日、教授室に僕を呼んだ。
そして、こう言った。
「今の状況だと、多くが卒業できなくなる」
「そこで、頼みがあるんだが、なんとかみんなが卒業できるように、みんなのやる気が出るように士気を高めてくれないか」
「お前ならきっとできる。期待している」
今思えば、僕はうまく教授に踊らされたのだと思う。
でも、僕なりに研究室のみんなに声をかけたりしているうちに、少しずつ研究室は活気を取り戻していった。
そして、全員が無事に卒業した。
卒業式は、日本武道館で行われた。
でも、僕は卒業式には行っていない。
入学式にも行かなかった。
卒業証書は、後になって大学へ受け取りに行った。
大学を卒業すると、普通は企業などに就職する。
でも、僕は違った。
僕は、「子馬」に就職した。
相変わらず店の三階に住み込みだったが、立場は店長になった。
僕は「飲み屋の地位向上」をテーマに掲げた。
サラリーマンなんかに、馬鹿にされたくなかった。
そのことを親父に話すと、
「お前は、サラリーマンになったことがあるのか?やってみなきゃわからないだろ」
と言われた。
その言葉は、後の僕の方向転換にもつながっていく。
子馬のママは、僕の店長就任を祝って、華々しい就任パーティーまで開いてくれた。
場所は、センター街にある「万葉会館」。
今でも同じ場所にある。
常連さんなど、約30人を招待してのパーティーだった。
僕は、みんなに祝ってもらった。
子馬は、その後も順調だった。
少し余裕ができた僕は、自動車教習所に通うことにした。
恵比寿駅の近くにある「日の丸自動車教習所」だった。
教習は順調に進んでいた。
ところが、その年の秋。
大事件が起こった。
ママが、神妙な顔をして僕に言った。
「徹くん、このお店、立ち退きになりました」
寝耳に水の話だった。
古いビルなので、大家が建て直しをするという。
「そんなに急に追われても困るよ」
僕はママに言った。
しかし、契約上、どうにもならないという。
「年末ぐらいまでは営業できるので、それまでにどうするか決めて」
そして、ママは続けた。
「大丈夫、徹くんならなんでもできるって!」
そう言われても、あまりに突然のことだった。
言葉が出なかった。
店長になってから、まだそれほど時間はたっていなかった。
これからも、ここでやっていく。
僕は、そう思っていた。
それなのに、突然、その道がなくなってしまった。
悲しんでばかりはいられない。
仕事と、住む場所を探さなければならない。
自動車教習所にも、途中から通えなくなった。
そんな時、中学校時代の塾仲間で、その頃も付き合いがあった高橋くんから連絡があった。
「パソコンを買いたいので、渋谷の城南電機についてきてほしい」
ということだった。
あまり乗り気ではなかった。
でも、一人でいるよりはましだと思い、付き合うことにした。
休日ということもあり、城南電機は人であふれかえっていた。
特にパソコンコーナーは混雑していて、店員に説明を聞きたくても、なかなかつかまらない。
ようやく店員をつかまえて話を聞いた。
売れ筋は、NECのPC-9801シリーズだという。
本体だけで30~40万円。
これにモニターも必要になる。
全部合わせれば、50万円くらいしただろう。
そんな高価なパソコンが、飛ぶように売れている。
僕には、それが不思議な光景だった。
高橋くんは、PC-9801を購入した。
実家がユニフォームを扱っている会社だったので、その会社でパソコンを使うのだと言っていた。
城南電機からの帰り道、何かがはじけた。
「これからはコンピューターの時代だ」
何の根拠もなかった。
でも、なぜか強くそう思った。
僕は、秋葉原でMSXというコンピューターを買った。
MSXは、PC-9801などと違って、テレビに接続できる。
価格も3万円程度だったので、僕にも買うことができた。
同時に参考書も買った。
そして、初めてプログラムを組んだ。
感動した。
自分で作ったプログラムが、テレビ画面の中で動く。
自分で作ったものが、本当に動いている。
それが、たまらなく嬉しかった。
そのとき初めて、「ソフトウェアハウス」という言葉を知った。
就職情報誌を買い、ソフトウェアハウスを探した。
幸いなことに、その頃はコンピューター関連の企業がたくさん掲載されていた。
未経験の中途採用も歓迎されていた。
僕は、いくつかの会社を受けることにした。
株式会社ビー・ビー・エスは、田町駅から徒歩10分ほど、国道15号沿いにあった。
明るい雰囲気の、きれいなオフィスだった。
試験は、面接と筆記試験だった。
問題を見て、僕は驚いた。
実は、ビー・ビー・エスを受ける数時間前に、渋谷のソフトウェアハウスの採用試験も受けていた。
そのときの筆記試験が、ビー・ビー・エスの筆記試験とまったく同じだったのだ。
一度受けた試験問題だけに、おそらく全問正解だっただろう。
結果は、渋谷の会社もビー・ビー・エスも、どちらも合格だった。
僕は、ビー・ビー・エスを選んだ。
後で聞いた話だが、奇遇にも僕は、ビー・ビー・エスの荒川社長と同じ誕生日だった。
それが影響しているのかは、わからない。
ただ、荒川社長は、僕に目をかけてくれた。
こうして僕は、子馬を離れ、コンピューターの世界へ入っていくことになった。
振り返ってみれば、子馬の立ち退きがなければ、僕はコンピューターを買っていなかったかもしれない。
あのとき、子馬が立ち退きにならなかったら。
僕は、今とは違う人生を歩いていたかもしれない。
あれが、僕にとって最初の大きな分かれ道だった。