当時、僕は美紀の家に一時的に居候していた。

荷物もほとんどなく、着の身着のままだったと思う。

その部屋は狭く、二人で住むには窮屈だった。

そこで、戸越銀座に引っ越すことにした。

ここから、美紀との同居生活が始まった。

美紀は美容師学校を卒業し、美容師になった。

美容師免許を持っていても、まだ見習いということもあり、給料は安かった。

僕も入社したばかりで、給料はまだ安い。

一人の給料では、東京で部屋を借りて暮らすのは難しい。二人ならなんとかなるだろうと思った。


一緒に暮らし始める前に、美紀の実家へ行って、両親に同居の許しをもらった。

美紀のお父さんは、あまり酒を飲まない人だと聞いていた。

ところが、その日は、ご機嫌で遅くまで飲んだ。

気が付けば、二人でビールの大びんを1ケース飲んでいた。

僕は、トイレで吐いた。


戸越銀座の部屋は1Kで、ロフトが付いていた。

ロフトが寝る場所で、普段の生活は1階で過ごした。

僕はサラリーマンだから土日が休み。

美紀は美容師なので、休みは火曜日。

二人の休みが合うことはほとんどなかった。

そんな生活の中で、僕は少しずつ新しい仕事に慣れていった。


ビー・ビー・エスに入社したのは12月の初めだった。

その年の暮れ、会社では社員旅行が予定されていた。

12月の後半だったと思う。

まだ入社したばかりだった僕には、社員旅行に行くということは、頭の片隅にもなかった。

自分には関係のないことだと思っていた。

でも、社員がみんな旅行に行ってしまったら、僕はどうするのだろう。

会社は休みになるのか、それとも出社するのか。

社員旅行に参加しない社員もいるだろうから、出社してもいいのだろうか。

そう思っていたところへ、荒川社長から声をかけられた。

「盛川くん、社員旅行にぜひとも行かないか?」

そして、

「パスポートを持っているかい?」

と聞かれた。

社員旅行は、ハワイだった。

もちろん、僕はパスポートを持っていなかった。

「持っていません」

そう答えると、社長は、

「じゃあ、取りに行ってきなさい」

と言った。

パスポートセンターは新橋にあり、会社から近かった。

手続きをするには、銀行の残高を証明する必要があった。

社長に、

「銀行にお金はあるかい?」

と聞かれた。

僕には、そんなお金はなかった。

すると社長は、10万円を渡してくれた。

そのお金を銀行に入れて、通帳に記帳する。

それを証明としてパスポートの申請をしたら、終わったあとにお金を引き出して返せばいいという。

僕は、社長の親切がありがたかった。

入社したばかりの僕に、そこまでしてくれることがうれしかった。

こうして、僕は初めて海外へ行くことになった。


ハワイは楽しかった。

ココナッツジュースは冷たくて、おいしかった。

ブルーハワイも最高だった。

いくらでも飲めるような気がした。

そして、初めてピストルを撃った。

持ってみると、思っていたよりずっと重かった。

トリガーを引いたときの反動と音。

その感覚が、妙に気持ちよかった。


ある夜、タバコがなくなった。

しかし、自動販売機がどこかわからない。

そこで、通りを歩いている外国人に、

「ホエアー・シガレット?」

と聞いた。

身振りを交えながら聞くと、その人は、

「Over there」

と言って、向こうを指さした。

「ああ、そこの向こうね」

と思った僕は、

「オッケイ・オーバーゼア・サンキュー!」

と言って、指さされた方向へ向かった。

外国人と初めて英語で話した。

といっても、ほとんど英語にはなっていない。

それでも、ボディランゲージで通じたことがうれしかった。


戸越銀座での生活は、決して楽なものではなかった。

それでも、僕は再び運転免許を取るために教習所へ通い始めた。

すでに路上教習まで進んでいたので、ここまで来て無駄にしたくなかった。

仕事が終わってから教習所へ行き、休日も使って、期限までに卒業検定を受けようとした。

卒業検定の日。

僕は2番目だと言われた。

「ラッキー! これは合格同然だ」

そう思って、余裕を持って教習車へ向かった。

日の丸自動車教習所の卒業検定は、教習車に検定員と3人の受験者が乗り、一周する。

最初の受験者は助手席。

残りの二人は後部座席に座る。

最初の人が検定を受けている間、2番目の人は後ろの席からコースを見ることができる。

つまり、同じコースを3回見ることができるのだ。

ところが、その日、最初に検定を受ける予定だった人が来なかった。

僕は突然、1番目になった。

急に順番が変わったことで、すっかり動揺してしまった。

そして、卒業検定に落ちた。

あとから、その日、最初に検定を受ける予定だった人が、女優だったと知った。

なんとも運が悪かった。

2回目の検定で、僕は無事に合格した。

片側四車線の大きな道路を走る卒業検定は、とても緊張した。

でも、日の丸自動車教習所で路上教習を受けたことで、車の運転には自信がついた。

ここで教わったのなら、どこへ行っても運転できる。

そんな気持ちになった。

その後、日の丸自動車教習所がなくなると聞いた。

自分が卒業した学校がなくなると聞いたときは、なんとも寂しい気持ちになった。


仕事のほうでは、ビー・ビー・エスで3カ月間、みっちりとC言語を教え込まれる。

というか、教えてもらえる。

教えてもらって、給料をもらえるのだから、こんなにありがたいことはない。

早く戦力にならないと、という気持ちになる。

午前中は、C言語のビデオ。

午後からは、実際にプログラムを組んでみる。

最初は、テキストに書いてあるプログラムを、そのまま打ち込む。

そのファイルを実行形式にする。

起動すると画面に、

「Hello World!」

と表示された。

初めてC言語で作ったプログラムが、目の前で動いた。

この感動は、今でも忘れることができない。

研修も2カ月を過ぎると、OJTに入る。

実際のプロジェクトに配属されて、先輩社員と一緒に仕事をするのだ。

僕は、富士フィルムの検査プログラムを開発しているプロジェクトに入った。

内容は、ちんぷんかんぷんだったが、現地調整にも連れて行ってもらった。

富士フィルムの足柄工場は遠かった。

現場近くの民宿に前泊し、翌朝一番で現地入りする。

真夏で、朝7時でも現場に行くのには汗まみれ。

ワイシャツを脱いで、汗を絞った記憶しかない。

現地調整も、ただ見ているだけだった。

それでも、これが仕事なのだと思った。


2年ほどたち、いくつかのプロジェクトを経験して、ようやく少しは作業を任されるようになる。

その頃、社内では大きなプロジェクトが動き出していた。

「書留追跡端末Ⅰ型」の開発で、郵政省の仕事だ。

ビー・ビー・エスは、社長の方針で、仕事はすべて一次受けだった。

書留追跡の案件は、元々は郵政省だが、松下通信工業がすべての作業を請け、端末部分をビー・ビー・エスが担当し、サーバー部分を松下グループの開発会社が担当した。

端末は、書留に貼るバーコードを読み込み、それをプリンターに出力したり、データとしてサーバーに送信したりする。

大規模プロジェクトで、他社との連携もあり、緻密な設計が求められた。

社内でも精鋭たちがアサインされた。

その精鋭たちを束ねたのは、矢崎リーダーだった。

矢崎リーダーは、経験豊富なSEで、以前も書留追跡端末のプロジェクトを担当していた。

そのプロジェクトがスタートして、しばらくした頃、僕は課長に呼ばれた。

「盛川くん、矢崎くんのプロジェクトに移動してください」

と、言われたものの、稼働中の作業もある。

「それはこちらでなんとかするので、今日から参加してください」

そんなこんなで、僕は突然、精鋭プロジェクトに参加することになる。

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